過去の常識を否定してきた現代アート


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どんなに芸術を愛する人でも、「現代アートはわからない」と思われる人は多いのではないでしょうか。

アートとは「美」を表現するもの。作品に芸術家のオリジナリティがあり、希少性が高いほど価値あるもの、と考えるのが一般的です。

ところが現代アートは、そんなアートの概念から外れているように見えるものが多いです。醜悪だったり、工業製品を並べただけだったり、どちらかというとサブカルチャーに属するようなものがアートだと賞賛されたりします。

学校の美術の授業では、形や色を本物そっくりに描いた絵が褒められました。本物に見えるかどうかは分かりやすい価値判断ですので、評価がしやすいです。私たちも本物のように描かれた絵が素晴らしい絵だと思ってきました。

ところが現代アートはそういった価値基準に基づいていないので、「現代アートはさっぱりわからない」という感想をもってしまいます。

そんな現代アートですが、「そういうことか!」と分かってくると俄然おもしろくなってきます。もちろん、分かってもおもしろくないと思われることも自由です。


現代アートは過去のアートへの異議申し立て


クロード・モネ「印象、日の出」(1872年) 出典:flickr

実はアートは、過去のアートの概念に反旗を翻すことによって進化してきました。

たとえば、印象派の絵画が好きだという日本人は多いですが、「印象、日の出」がフランスの芸術アカデミーではじめて世に出たときは散々でした。

当時のアートの基準はくっきりした正確なフォルムをもち、色も重厚な感じを良しとしていました。しかし印象派の絵は、ぼんやりして輪郭はあいまいです。色も明るくて重厚さのかけらもない、フワフワした水蒸気のようです。評論家からは「単なる印象。作りかけの壁紙の方がマシ」と酷評されました。

世間の人びとは伝統に安住していて、新しい風を理解することができなかったのかもしれません。

既成概念にどっぷり浸かり、それを超えたところにあるアートを理解することが難しいのは、私たちも同じです。現代アートを理解するためには、アーティストたちが過去の何を否定し、何を重視したか、を考えるといいのかもしれません。

●色彩の表現力に賭けたマティス


アンリ・マティス「緑のすじのあるマティス夫人の肖像」(1905年) 出典:flickr

もしアンリ・マティスを知らない人にこの絵を見せたら、これがアート史に残る傑作だとは思わないのではないでしょうか。

地色の塗り方にしても輪郭線の描き方にしても雑。質感はないに等しく、なにより鼻に緑色のすじを描き込み、顔の左右を違う色で塗り分けるという異様さ。この絵を「美しい」と感じる人はどれくらいいるでしょうか。

ところがマティスは現実を写し取る伝統的なアートの作法に従いません。彼にとってそんなことはどうでもいいことでした。彼が最も重視したのは色彩。色彩はそれ自体で人間の内的感情や感覚を表現します。組み合わせ方によって、静かな印象や情熱的な印象など、さまざまな印象を人に抱かせる力があります。

マティスは本物らしく事物を描こうとしたのではなく、絵画における表現世界そのものを描こうとしたのであり、それこそが画家の役目だと考えたのです。

マティスが意図したように、色彩に注目してこの絵を眺めたとき、少し違う景色が見えてきませんか?

●「存在の真実」を描こうとしたピカソ


パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907年) 出典:flickr

「よく分からない絵」ということを言いたいときに、引き合いに出されがちなのがピカソの絵です。人の顔を描くのに、顔のパーツが互いにあり得ない方向に向いていたり、輪郭線がゴツゴツしておよそ人間らしくなかったりします。ピカソの絵も「美しい」と思う人は少ないのではないでしょうか。

ピカソが巨匠だと評価されたのは、キュビズムという技法を発明したことによります。

人はふつう、ある一点から物を見ています。たとえば円錐の物体を見るとき、真横から見れば三角形ですが真上から見れば円に見えます。円錐という物体を語るときどちらの見方も円錐の姿を表現していますが、どちらも正しいとも言えるし、間違っているとも言えるでしょう。

キュビズムは物体をいろんな角度から見、あらゆる見え方を細かい四角(キューブ)にしてひとつの絵に書き込むという技法です。その革命的な表現方法に人々は驚嘆し、ピカソの絵に新しい芸術を見ました。

●現実から遠く離れたアートを熱望したカンディンスキー


ワシリー・カンディンスキー「コンポジションⅥ」(1913年) 出典:flickr

何を描いているか分からない絵といえば、抽象画も分かりにくいです。

分かりにくいといわれるピカソの絵も、まだ人間を描いているのだろうということは分かります。しかしカンディンスキーの絵に至っては、これが何であるかを説明するのはとても困難です。

カンディンスキーには、ある逸話が残っています。

ある日、彼が外出先から帰ってきてアトリエに入ってみると、見慣れない絵がイーゼル(画架)に乗せられていました。何が描かれているのか分からなかったのですが、その美しさに彼は見とれてしまったのです。

しかし、それは彼の絵が横向きに置かれていただけでした。そのことに気づくと、あれほど感動したその絵の美しさが彼の心から消えてしまいました。

何が描かれているか分からない状態のときにだけ美を見出せる、というところに引っかかったカンディンスキーは、具象的なものが美の邪魔をしているのではないかと考えました。

そこから彼は抽象画を探求し始めます。後にカンディンスキーは「抽象画の父」と呼ばれるようになりました。


デュシャンの「否定」から始まったアートの潮流


マルセル・デュシャン「泉」(1917) 出典:flickr

ここまで挙げたアーティストたちは既成のアートに反旗を翻した人たちでしたが、オリジナリティのある作品を創造する、という点ではまだ伝統に従っていました。

ところが1917年、アート界をひっくり返すとんでもない事件が起こります。ニューヨークのアンデパンダン展に、架空のアーティストのサイン(R. Matt)が書かれただけの男性用小便器が、「泉(Fountain)」という作品名で持ち込まれたのです。犯人はマルセル・デュシャンでした。

小便器は工業製品ですから、いくらでも同じものができます。しかも機械が製造したものであって、人間が創ったものですらありません。当初は「こんなものを展示するのはもってのほか」と衝立(パーテーション)の後ろに隠されてしまいました。

果たして「泉」はアートなのでしょうか?

デュシャンのアートの革新性は、作品という「物」ではなく「考え方」にあります。この作品が出品された当時は第1次世界大戦の最中でした。人と人が殺し合う現状は間違っているとデュシャンは思い、世の中を否定的に見るようになります。同時に既存の概念や価値観も徹底的に否定するようになりました。

彼はアートに対しても否定してかかります。なぜ美しく描かなければならないのか、なぜ自分が創造しなければならないのか、などとアートの概念に激しく疑問を投げつけました。その結果、最も汚くて最もありふれた工業製品である便器をアートとして出品し、価値観の根本的な問い直しを迫ったのでした。

デュシャンのこの態度は、後に「コンセプチュアルアート」あるいは「レディメイド」というアートの流れになって、現在に受け継がれています。


消費文化を肯定しアートにしたウォーホル


アンディ・ウォーホル「ブリロボックス」(1964) 出典:flickr

デュシャンから始まったアートに知的活動をもちこむという流れは、若い世代に大喝采で受け入れられ、さらに先鋭化されていきました。しかし、あまりに観念的過ぎてしまったアートは一般的には理解しがたいものになっていきます。

アンディ・ウォーホルが活躍した時代、アートの中心はパリからニューヨークに移って久しく、大量生産大量消費の世の中でした。もはやデュシャンが生きた時代のように、切羽詰まった状況ではなく、どこか陽気な時代です。そんな時代の空気を受け、ウォーホルは高尚な趣のあったアートを一気に大衆文化に引き下げ(引き上げ)ました。

もともと商業デザイナーだったウォーホルはアートにデザインを持ち込み、ブリロボックスというありふれた洗剤の箱の模造品を作って並べ、「アートだ」と強弁しました。

消費文化を肯定しお金儲けもアートだと主張したウォーホルの作品は、アートとアートでないものの違いをあいまいにし、「アートとは何か?」と人びとに問いかけることになります。

この疑問に対しアーサー・ダントーという哲学者が出した答えは、「あるモノがアートであるか否かは、それまでのアートの理論や事情、環境といったものを踏まえて判断される」としました。

ダントーの考え方を発展させたジョージ・ディッキーという哲学者は、「あるモノがアートであるか否かの判断を下すのは、鑑賞する側が『こういうものは、アートとみなせる』という社会的文化的な了解を抱けるかどうかにかかっている」といっています。

つまり、アートかアートでないかを判断するのは制作者ではなく、鑑賞する側が認めるか認めないかにかかっている、というわけです。


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現代アートの鑑賞者は、芸術家が渾身の力を込めて表現した作品をありがたく鑑賞させていただくという受け身的な立場から、作品を鑑賞し、吟味し、対話してアートかアートでないかを判断するという能動的な立場になったといえるでしょう。


百花繚乱の現代アート

繰り返し過去のアートの概念を否定してきた現代アートは、ごくありふれたものでさえもアートになりうるというところまできました。しかしこれで終わりではなく、さらに常識の転覆がはかられてきて、現代アートは何でもありの状況になってきています。

かつて「こんなものはアートではない」と思われたものも、アートとして堂々と権威ある美術館に収蔵されたりしています。たとえばバンダイ(現バンダイナムコ)のビデオゲーム機「パックマン」が、何の手も加えられないままニューヨークの近代美術館MoMAに陳列されているのも時代の流れでしょうか。


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また現代アートにとって「考え方」が重要ならば、伝統的なアートのように絵画や彫刻といった形にとらわれる必要はありません。ピアノに火をつけて弾いたり、バイオリンを油漬けにしたり、神経質なくらい道路を掃除し消毒する、というようなパフォーマンスもアートだと認められればアートです。

「オタク文化」といわれ、どちらかといえば「低俗」とみられがちなアニメのフィギュアもアートならば、コンピュータ制御されたオブジェの中で光と遊ぶ施設もアートです。

ブロックチェーンの技術を生かしたNFTにより唯一無二であることが担保されたデジタルアートが、その特性を生かして見たこともないアートの地平を切り開いていっているのを目の当たりにすることもあります。

まさに現代アートは百花繚乱の状態です。

こういった状況ですが、それらのモノが「アートかアートではないか」を判断するのは鑑賞者の特権です。あれやこれやと考えをめぐらし、友人とアートについて語り合うというのも現代アートの楽しみといえるでしょう。

芸術家のネームバリューに惑わされる必要はありません。極端にいえば「アヴィニョンの娘たち」はアートではない、と言うことも自由なのです。


【参考図書】

藤田令伊著『現代アート、超入門!』集英社新書

※ 本記事に掲載した作品画像は、各作家・作品について論じるために引用したものです(出典:flickr)。著作権は各権利者に帰属します。


宇野誠治 Uno Seiji

1656年 大分生まれ。明治大学文学部演劇学専攻卒。子どもの心と英語を育てる(株)ラボ教育センターで、雑誌・新聞の編集、記事執筆、グラフィックデザインを担当。定年退職後、ウェブライター、ブックデザイナー、グラフィックデザイナーとして活動。最近は劇団活動を再開。動画制作にも力を入れている。