ショッピングカート
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買い物を続ける
久しぶりに友人が、家に来た。
お茶を淹れて、テーブルにつく。話しているうちに、ふと友人の視線が、テーブルの向こうに動く。
「これ、いいね。」
何気ない一言だった。でも、その瞬間、自分の中で何かが、小さく動いた気がした。

リビングの壁に、絵がある。
2か月くらい前に、自分で選んで、自分で買った一枚だ。
正直、誰かに見てもらおうと思って飾ったわけじゃない。
ただ、自分が好きだったから。
それが、友人の目に止まった。
「なんとなく好きで、買ったんだ」と答える。
友人は「ふーん」と言いながら、もう一度絵を見ている。
「ふーん」のあとに、すぐに別の話に移ることもできた。
でも、友人はもう少しだけ、絵を見ている。
その横顔を見ていたら、なんだか少し、うれしかった。

褒められたいわけじゃなかった。
評価されたいとも、思っていない。
でも、確かに、うれしい。これは何だろう。
たぶん——
「いいね」という言葉は、絵にかけられたものだけど、その絵を選んだ自分にも、少しだけ届いていた。
自分の感性が、誰かの感性と、ちょっとだけ重なった瞬間。
それが、思っていたよりずっと、温かい。
「同じものを、いいと思える人がいるんだ」というだけのことなのに、なぜかちょっと安心する。
世の中には、たくさんの人がいて、たくさんの「いい」がある。
自分の「いい」は、その中のひとつでしかない。
でも、目の前の友人がそれに「うん」と頷いてくれたとき、自分の輪郭が、すこしだけはっきりした気がする。

自分も最初は「なんとなく好き」で、その絵を選んだ。
画面をスクロールしていて、指が止まった。理由は、いまもうまく言えない。
その「なんとなく」が、別の誰かの「なんとなく」と重なる。
言葉にしなくても、感性は通じることがある。
「いいよね」「うん、いいね」——それだけの会話で、確かに何かが交わっている。
長く話すわけでもない。深く分析するわけでもない。
ふたりで、同じものを見て、ふたりとも、少し息をする。
それだけの瞬間に、人と人の距離は、ふっと縮まる。
たぶん、そういう瞬間のために、わたしたちは絵を飾るのかもしれない。

ときどき、「なんで好きなの?」と聞かれることがある。
ちゃんと答えようとして、言葉を探す。
「色が好き」「構図が好き」「なんとなく落ち着く」——どれも当たっているけど、全部じゃない。
最終的に、こう言う。
「わからない。でも好き。」
友人は、笑う。でも、たぶん、納得している。
説明できないものを、説明できないまま伝える。
そういう会話が、家にあるのは、悪くないと思う。
逆に、すべてが説明できる関係って、ちょっと窮屈じゃないだろうか。
「理由を言えないけど、いい」が、対話の中にあっていい。
そういう会話が、案外、長く続く関係をつくる。

これは、友人だけの話じゃない。
母が、久しぶりに家に来た日のこと。
リビングを通り過ぎる途中で、ふと立ち止まって、「これいいわね」と言った。
母は、特別アートに詳しいわけじゃない。
でも、そのとき「いいわね」と言った母の表情を、しばらく覚えていた。
パートナーが、買ってきた絵に「これ、好き」と言ってくれた日のことも、いまでも思い出す。
言葉は短いのに、それを聞いたときの気持ちは、ずっと残る。
絵があるから、こういう会話が生まれる。
絵がなかったら、たぶん通り過ぎていた瞬間に、小さな停止が生まれる。
家族でも、毎日全部の話をするわけじゃない。だから、絵に話してもらうのも、悪くない。

でも、たいていの日は、誰も来ない。
家に絵があっても、毎日「これいいね」と言ってもらえるわけじゃない。
むしろ、ほとんどの日は、自分しか見ていない。
それは、寂しいことだろうか。
たぶん、違う。
絵は、見てもらうために飾るわけじゃない。
そこにある、それで十分。
誰にも気づかれないまま、毎日、自分にだけ見られている時間も、絵にはちゃんとある。
来客がない日のほうが、絵との関係は、深い気もする。
誰かの「いいね」がない日にも、絵はそこにいて、自分はそれを見ている。
それで、本当はいい。

友人が帰ったあと、もう一度、絵を見る。
さっきまでとは、ちょっとだけ違って見える気がする。
「いいね」という言葉を、絵が覚えているような気もする。
その友人が、いつかアートを買うかは、わからない。
それは別の話だ。
でも、その人の中にも、たぶん何かが残った。
一枚の絵が、ふたりのあいだに、ちいさな余白をつくった。
「これいいね」と言ってもらえる日も、誰も来ない日も、絵はそこにいる。
それで、いいんだと思う。
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Writer 「わからない。でも好き。」——感性で選ぶアートとの出会いを届ける。 |